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英国エリザベス朝及びジェコビアン朝における政治、社会、経済、宗教、文化の発展がウィリアム・シェイクスピアの戯曲に与えたインパクトの概略(その11)

11. 役者+劇作家+株主=大地主

「ヘンリー5世」の大成功で快進撃を続けていたシェイクスピアは1592年に蔓延したペストによる当局の指導で、ローズ座での公演を一時中断せざるをえなくなった。たちの悪い伝染病による多数の死者が出て、ロンドン経済は壊滅的な被害を被り、長年連れ添ってきたストレインジ伯爵の一座は解散となり、演劇仲間もちりじりになっていった。それでも執筆活動をあきらめなかったシェイクスピアは、後援者のひとりであるウリオサスリー伯爵のために詩を書くなどして食いつないでいた。ウリオサスリーはセント・ジョン大学から16歳で修士を修めた秀才で、エリザベス女王やマーローとも顔見知りの知識人で、シェイクスピアの良き理解者である。ウリオサスリーはシェイクスピアの書いた二つの詩に気前よく1000ポンド払っている。当時、エリザベス女王が観劇に来ると10ポンドおいていったので、ウリオサスリーの気前の良さには驚く。

1594年にペストの流行がおさまって、シアターが再開されたときはストレインジ伯爵の死去もあり、所属劇団をチャンバレン伯爵の一座に改名した。シェイクスピアはリチャード・バーベイジ、ウィリアム・ケンプらと舞台活動を再開させる。演劇一家に生まれたバーベイジは当時の超人気俳優であり、「リチャード3世」をはじめ、「ハムレット」、「リア王」、「オセロ」などで主役を務めた。その一方で、ケンプはアイルランド舞踊の名手で9日間(実際には1ヶ月と言われている)かけて、ロンドンからノーウィックという町までの道のりを、ダンスしたつわものである。チャンバレン伯爵の一座の前身はストレンジ伯爵の一座であったが、再編成を機に本拠地だったローズ座を捨てた。一座はテムズ川を渡り、バーベイジの父ジェイムスが経営するロンドン市北部のシアター座に移ってきた。

チャンバレン伯爵の一座の経営手法は6人のメインの役者たちが株主の会社を設立し、公演の売上金を直接受け取って、配当を分配していたという当時としてはたいへん画期的なものであった。6人のメインの役者たちは財政的に劇団からは独立しており、劇場側には舞台の使用料だけを払っていた。これは劇場主が公演の売上金を先に徴収し、それを役者たちに給料として払っていたアドミラル伯爵の一座とは正反対であった。注目すべきはシェイクスピアがこれ以後、役者と劇作家の活動に専念し、劇団を変えることはなかったという点である。他の劇団と比較しても居心地が格段に良かった点と、自分たちが起業者であるという自負が作品の完成度の高さに反映していたのである。この点からシェイクスピアは劇作家としても一流であっただけでなく、ビジネスマンとしても先見の明があったのかもしれない。一文無しでロンドンへ上京してきた男が、25年後の1602年には故郷のストラトフォードに125エーカー(約15万坪)の土地を購入し、まさに故郷に錦を飾ったのだ。

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